東京高等裁判所 昭和35年(う)844号 判決 1960年9月30日
上告人 被告人 伊藤義昭
弁護人 定塚脩
控訴人 検察官事務取扱検事 富田正典
主文
原判決を破棄する。
被告人を罰金六、〇〇〇円に処する。
右罰金を完納することができないときは、金二〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
原審及び当審における訴訟費用は、全部被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意及びこれに対する答弁は、それぞれ、末尾に添付した大森区検察庁検察官事務取扱検事富田正典作成名義の控訴趣意書と題する書面及び弁護人定塚脩作成名義の答弁書と題する書面に記載してあるとおりであるから、各所論を対比検討の上、次のとおり判断する。
原審第六回公判調書に顕われた被告人の供述、原審第四回公判調書に顕われた証人安田憲吾の供述、原審第五回公判調書に顕われた証人柴田勝司の供述、当審における証人柴田勝司に対する尋問調書中の供述記載、原審及び当審における各検証調書中の記載、被告人の検察官及び司法巡査に対する各供述調書中の供述記載、藤城広の司法巡査に対する供述調書中の供述記載及び医師佐藤英夫作成の明石晃男に対する診断書の謄本の記載を総合すれば、本件十字路については、被告人の進行していた道路の幅は約五・九八米、藤城広の進行していた道路の幅は約五・六米であるが、被告人の進行していた方面から藤城広の進行していた道路を見る場合やその逆の場合においては、間に介在する建造物にさえぎられて、交叉点の入口に近付かなければ相互に見通しがきかない状況にあつて、右各道路を進行する自動車等が右交叉点において事故を起す危険があるので、自動車を運転して被告人の進行した方面から右交叉点に向かう場合は、一時停止又は徐行し、他の交叉道路の左右から交叉点に進入して来る車馬等の有無を見定めて適宜な措置を講じ、交叉点における事故を未然に防止すべき業務上の注意義務があるものといわなければならないのであるが、被告人は、当時、小型貨物自動車を運転して右交叉点に向かうにあたり、右業務上必要な注意を怠り、交叉点の手前約六・六七米の地点で警笛を鳴らしただけで時速約二八粁で進行し、交叉点の手前約二米の地点において、他の交叉道路の右側から時速約三二粁で交叉点に進入しようとしていた藤城広の運転する自動三輪車を発見し、急停車の措置を講じたが、まにあわず、右交叉点において、被告人の自動車を避けようとしてハンドルを右に切つていた右自動三輪車の左側に自己の自動車の右前部を衝突させ、これによる衝撃が加わつたため、右自動三輪車は、右側斜前方の交叉点角にある佐藤外科病院の表玄関入口に乗り上げ、同病院内部からそこへ出て来た明石晃男に衝突してこれに傷害を与えたものであつて、この傷害は被告人の業務上の過失によつて生じたものであることが認められるのである。もつとも、前記証拠によれば、右藤城広は、自己の進行する道路が交叉道路よりも広いと信じて、交叉道路の交通を顧慮することなく、漫然時速約三二粁で右交叉点に進入して来たものであつて、同人にも自動車運転者としての業務上の過失の存することは明らかであるが、これがため被告人の過失やこれと右傷害との因果関係を否定することはできず、右傷害は、藤城と被告人との両名の過失が競合した結果生じたものといわなければならない。なお、被告人の進行した道路の幅は、藤城広の進行した道路の幅よりも広く、被告人は、藤城広の左側にいたのであるから、道路交通取締法によれば、藤城は、被告人に進路を譲るべきものではあるが、道路の幅員の差異は、前記のように僅少であつて、目測によつてにわかに広狭の別を識別し難い程度のものであり、かつ、本件現場は、前記のように、交叉点の入口に近付かなければ相互に見通しのきかない所であるから、このような場所においては、右のような法規上の理由から、被告人について、前記のような注意義務はないものとし、又これを軽減すべきものとするわけにはいかない。弁護人は、被告人が藤城広の自動三輪車を発見する前の被告人の自動車の速度は時速二〇粁以下であつて、交叉点にさしかかつた藤城広の自動三輪車の速度は時速三五粁以上であつたとし、本件傷害は、交叉点に関する注意をしていなかつた藤城広が交叉点間近になつて左側から被告人の車が進行して来るのを発見して右へハンドルを切つて車を斜行させたために生じたものであつて、全く藤城の過失によるものであり、被告人の車が藤城の車に衝突してこれを斜行させたものではないばかりか、右傷害について被告人の責任を問うべき筋合ではない旨主張するのであるが、前掲証拠に徴すれば、この主張は、とうてい採用することはできないのである。原審における審理の結果及び当審における事実の取調の結果をかれこれ照らし合わせて検討しても、前記認定を左右するに足るものはない。従つて、被告人の過失やその過失により本件傷害を生じたことは認められないものとして、被告人に対し無罪を言い渡した原判決は、事実の誤認をおかし、これが判決に影響を及ぼしたものといわなければならないのであつて、検察官の論旨は、理由があるから、刑事訴訟法第三九七条第一項により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により当審において左のとおり判決をすることとする。
第一罪となるべき事実
被告人は、昭和三二年中から自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和三三年四月一七日午後六時二〇分頃小型貨物自動車(トヨペツト五七年型)を運転して、東京都大田区東京急行電鉄池上線雪ケ谷大塚駅から呑川方面に至る幅約五・九八米の道路を西方より東方に向かい、同区雪ケ谷町六六三番地先の交叉点にさしかかつた。この道路は、この交叉点において同区調布嶺町から同区石川町に至る幅約五・六米の道路と交叉して十字路を形成するものであるが、この十字路については、被告人の進行してきた方面からこの交叉道路を見る場合やその逆の場合においては、間に介在する建造物にさえぎられて、交叉点の入口に近付かなければ相互に見通しがきかない状況にあつて、右各道路を進行する自動車等が右交叉点において事故を起す危険があるので、自動車運転の業務に従事する被告人としては、右のように右交叉点にさしかかる場合には、一時停止又は徐行をし、右交叉道路の左右から交叉点に進入して来る車馬等の有無を見定めて適宜な措置を講じ、交叉点における事故を未然に防止すべき業務上の注意義務があつたにかかわらず、被告人は、かかる業務上必要な注意を怠り、交叉点の手前約六・六七米の地点で警笛を鳴らしただけで時速約二八粁で進行をつづけ、交叉点の手前約二米の地点に至つて、はじめて、右交叉道路の右側から時速約三二粁で交叉点に進入しようとしていた藤城広の運転する自動三輪車を発見し、急停車の措置を講じたが、時すでにおそく、右交叉点において、被告人の自動車を避けようとしてハンドルを右に切つていた右自動三輪車の左側に自己の自動車の右前部を衝突させ、これによる衝撃が加わつたため、右自動三輪車は、右側斜前方の交叉点東北角にある同区雪ケ谷町六六三番地佐藤外科病院の表玄関入口に乗り上げ、たまたま同病院内部からそこへ出て来た明石晃男に衝突して同人に加療約三箇月を要する右下腿骨骨折を生ぜしめたものである。
第二証拠
右の事実は、
一、原審第六回公判調書中被告人の供述記載
一、原審第四回公判調書中証人安田憲吾の供述記載
一、原審第五回公判調書中証人柴田勝司の供述記載
一、当審における証人柴田勝司に対する尋問調書中の供述記載
一、原審及び当審における各検証調書中の記載
一、被告人の検察官及び司法巡査に対する各供述調書中の供述記載
一、藤城広の司法巡査に対する供述調書中の供述記載
一、佐藤英夫作成の明石晃男に対する診断書の謄本の記載
を総合して、これを認める。
第三法令の適用
被告人の判示所為は、刑法第二一一条前段、罰金等臨時措置法第二条第一項、第三条第一項第一号に該当するから、所定刑中罰金刑を選択し、その金額の範囲内で被告人を罰金六、〇〇〇円に処し、この罰金を完納することができないときは、刑法第一八条に則り、金二〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、原審及び当審における訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項本文により、全部これを被告人に負担させることとする。
以上のとおりであるから、主文のとおり判決する。
(裁判長判事 尾後貫荘太郎 判事 堀真道 判事 堀義次)
検察官事務取扱検事富田正典の控訴の趣意
原審は、本件公訴事実につき「被告人の過失及び過失により明石晃男に傷害を与えたと認むるに足る証明十分でない」として無罪の言渡をしたが、右判決は、事実を誤認し、刑法第二一一条にいわゆる「業務上必要なる注意」の解釈を誤つたもので、右の誤認及び法令の適用の誤りは判決に影響を及ぼすこと明らかであるから、原判決は到底破棄を免れない。
第一、原審において取調べた証拠によれば一、本件事故の発生した現場は、東京都大田区雪ケ谷六六三番地先の池上線雪ケ谷大塚駅より呑川に至る巾員五・九八米の道路と大田区調布嶺町より同区石川町に至る巾員五・六米の道路との交叉するアスフアルト舗装の十字路であつて、十字路の四角に立つている建物等のため左右の見とおしは利かない。(検証調書記録二〇丁以下)二、事故発生時刻は、昭和三十三年四月二十七日午後六時二十八分頃で天候は曇天(証人小池昭二記録六六丁、証人鬼熊安衛記録六二丁、証人溝渕徹七五丁)ないし小雨(証人柴田勝司記録一〇九丁)であつた。三、被告人は、時速約二十七、八粁で雪ケ谷大塚駅から呑川方面に向つて進行し、(被告人の警察官に対する供述調書記録一三〇丁、検察官に対する供述調書記録一三三丁、公判廷における供述記録一二一丁裏、検証調書「被告人の自動車のスリツプ痕跡四・六米」記録二三丁裏)右交叉点に差しかかつた。四、被告人は、交叉点入口手前約六・七米の個所でクラクシヨンを二回位鳴らしたまま、その速度で交叉点に進み、(検証調書、記録二二丁、被告人の警察官に対する供述調書、記録一三〇丁、同検察官に対する供述調書、記録一三三丁)交叉点手前約二米の位置で調布嶺町方向より石川台に向つて進行して来た藤城広の運転する自動三輪車を発見し、アクセルを外すと共に急ブレーキを踏んだ。(検証調書、記録二二丁、被告人の警察官に対する供述調書、記録一三〇丁、同検察官に対する供述調書、記録一三三丁、同公判廷における供述、記録一二二丁)五、しかし被告人の自動車は、前記交叉点内で右藤城広の運転する自動三輪車の左側助手席後部附近に自車右前部を接触させるに至つた。(昭和三十四年五月十一日附司法警察員巡査部長、鬼熊安衛作成の現場における写真撮影の件と題する文書添付の写真、並びに被告人の原審公判廷における供述、記録一二二丁、同人の警察官に対する供述調書、記録一三〇丁、同人の検察官に対する供述調書、記録一三三丁)六、一方、藤城広の自動三輪車は時速三十二粁位で進行し交叉点手前二十米位で交叉点のあることを知つたが、自己の進路が幹線と思つてそのままで進み、交叉点一米位手前で左側に四輪車を認め、右へハンドルを切つてさけようとしたが及ばず、被告人の運転する自動四輪車に衝突した。(証人藤城広の原審公判廷の供述、記録一一三丁、同人の警察官に対する供述調書、記録一二六丁検証調書、記録二二丁以下)七、右衝突のため、藤城広は、その運転する自動三輪車を右交叉点東北方角の佐藤外科病院玄関方向に斜行せしめて、折柄、右病院玄関に立ち出でた明石晃男(当二十年)に衝突させ、これをその場に転倒させて同人に加療約三ケ月を要する右下腿骨骨折の傷害を負わせた。(医師佐藤英夫作成の診断書写、記録一二丁及び被告人の原審公判廷の供述、記録一二二丁以下、同人の警察官に対する供述調書、記録一三〇丁以下、同人の検察官に対する供述調書、記録一三三丁以下)事実が認められる。
第二、かかる場合、被告人に要求される業務上の注意義務の内容を検討すれば、一、前記の如き左右見とおしのわるい交叉点にさしかかつた場合、被告人に対しては道路交通取締法第二十条同法施行令第二十九条により徐行義務が要求される。一般的に、徐行の意義については法令上格別の定めがないので、社会通念によつて決するほかはなく、通常貨物自動車の徐行とはその制限時速四十粁の二分の一(二十粁)以下たるべきものと解するを相当とするとの判例(高裁判例集七巻五号七六五頁東京高裁昭和二十九年五月三十一日判決参照)もあるのであるが、制限時速の半分以下というも、これも一応の基準に過ぎず、結局は、「交通危険の状況に応じ、危険発生を未然に防止するに十分な程度に速度を減じ、敏速に停車の措置をとり得るような速度で進行することを指すものというベく、その程度は、道路の広狭、みとおしの難易、その他の地形並びに当該交通機関の種類、その他諸般の状況を参酌して具体的に認定すべきもの」(高裁判例集十一巻三号一二〇頁東京高裁三三年四月二十二日判決)であつて、みとおしの困難な道路幅員約五・五米から六米の曲り角附近で大型貨物自動車が敏速に停車の措置をとり得る速度は少くとも時速十粁以下であるとして時速十二、三粁でこのような場所を運転したことに対して過失を認めた裁判例すらあるのであつて、具体的状況に即して、事故の発生を未然に防止すべき高度の徐行義務が要求されているのである。ところで被告人は、前記認定のとおり、本件交叉点附近の自動車の制限速度時速三十二粁の範囲内である二十七、八粁でさしかかつたこと、交叉点の約七米手前でクラクシヨンを二回吹鳴していること、進入前二米の地点で藤城広の自動車を発見し、アクセルを外して急ブレーキを踏んだこと等一応の注意をしていることが認められるが、前記諸判例に徴しても明らかであるように、本件十字路のように幅員六米に足りない比較的狭隘な道路が交叉し、且つ四角には建物が建ち、あらかじめ左右の安全確認が十分になし得ない交叉点にあつては、前記程度の注意義務を履行しただけでは足らず、左右道路から交叉点に進入して来る車馬の有無を確かめ、危険を感じた場合には直ちに停車し得る程度に徐行すべき業務上の注意義務があることはいうまでもない。従つて、被告人が交叉点進入前約二米で藤城広を発見し、アクセルを外し、急ブレーキをかけたからといつて、右徐行義務を果したとはいえず、被告人に徐行義務を怠つた過失があることは明らかである。二、次に本件事故はみとおしの悪るい交叉点における出会頭の衝突事故によるものである。証人藤城広の原審証言(記録一一二丁以下)並びに同人の警察官に対する供述調書の記載(記録一二六丁以下)その他記録全体を通じて本件を観察する時は、衝突の相手方である右藤城広の側にも一時停止乃至徐行義務違反の業務上の過失が認められる。しかし、これがため被告人の過失が成立しないとすることは当らない。前記の如く被告人においても、業務上の注意義務に従い徐行して出会頭の衝突を避けるべき注意義務が要求されるのであつて、被告人においてもう少し手前から最徐行していたならば、距離的にも時間的にも余裕を生じ、本件事故を回避し得たことは明らかであつて、たとえ、右藤城広側の過失が大であつたとしても、本件事故が被告人にとつて不可抗力であつたとは認められない。このことは、同種事案に関する判例にも明らかである。(高等裁判所刑事裁判特報昭和三十三年度五巻第一号一九頁、昭和三十三年一月十八日東京高裁判決参照)原審が、被告人に過失を認むべき証拠なしとして無罪の判決を言渡したのは、藤城広の過失を過大視する余り、被告人の過失を認定すべき諸事実を不当に軽視または看過するに至つたもので到底容認し難い。三、原判決は、被告人の自動車が先に交叉点に入つていることや(検証調書記録二一丁)被告人の進路と右藤城広の進路との広狭の差異(検証調書記録二二丁)等から、道路交通取締法第十七条第十八条等を理由として被告人に過失を否定しているもののように窺われるが、広狭の差といつても僅か三十糎余に過ぎず、同法第十八条の趣旨に徴しても、本件交叉点は左右の道路に広狭の差があるとは認め難い。殊に同所は交通事故発生の危険の大きい地点で、被告人の進路には平素事故発生を注意する標識が設置してあり、当時は、安全週間に備えて一時塗装のため引揚げその場になかつたとしても、被告人は、同所を時折通行し地理の状況は既に知つていたのであるから、(被告人の警察官に対する供述調書記録一三〇丁参照、証人柴田勝司、同小池昭二の各証言記録二六丁三三丁参照)たとえ、前記の如く多少広狭の差異があつたとしても、同所通過の際はこれにかかわらず、安全交通を顧慮して進行すべきものであり、道路の広狭による通行順位の如何によつて徐行乃至一時停止の義務を免がれることができるものではない。また、自動車運転者たる者は衝突事故を避けるについて、そのなし得べき最善の措置を講ずべき業務上の注意義務があるのであつて、(昭和九年七月十二日大審判決刑事判例集第十三巻一〇三六頁、昭和三十三年九月二十五日東京高裁判決高裁判例集八号四七六頁参照)道路交通取締法が安全交通の建前上通行順位を定めているからと言つて、先行順位の運転者に対して運転上必要な注意義務を免除し、徐行乃至一時停止義務を免れしめるものではない。本件弁護人は、道路の広狭及び左右により優先順位にあつたことを理由として被告人の無過失を主張しているが、(記録一五五丁以下)叙上の理由により被告人に過失がなかつたとすることはできない。四、既に右の状況によつて被告人に業務上の注意義務を怠つた過失が認められる以上は、これによつて生じた明石晃男の傷害との間に因果関係の存することは明らかであつて、右明石晃男の直接の傷害が藤城広の自動車の衝突に基くものであるからと云つて、被告人の責任を否定することにならないことまたいうまでもない。
第三、叙上のとおり原判決は本件被告人の過失の有無につき事実を誤認し、延いては刑法第二百十一条に所謂業務上必要な注意義務の解釈を誤つたものであり、右の誤認及び法令の適用の誤りは判決に影響を及ぼすこと明らかであるから原判決は到底破棄を免れない。